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更新日:2026年2月3日

Vol.0 :
標高3,000m級の山々に囲まれている長野県は、四季折々に変化を明瞭に感じることができます。特に冬は、南北に220kmと広がる地形から風土の違いがはっきりと現れます。日本有数の豪雪地帯である北部は深い雪で閉ざされるのに対し、中部や南部は、国内屈指の晴天率を誇るほど晴れ間が多く、平地の空気は乾燥し、放射冷却によって厳しく冷え込みます。そして、県土を隔てるように南北を走る日本アルプスをはじめとする山々に積もる雪はやがて雪解け水となり、麓の田畑を潤し、人々の暮らしを豊かに育みます。
こうした気候風土の特性を生かし育まれてきた長野県の日本酒。県内の酒蔵は現在78蔵あり、国内2位を誇ります。その名が全国に知られる酒蔵もありますが、丹念に酒造りを行う小さな酒蔵が多いのが特徴です。山々に隔たれた集落ごと風景が異なるように、そこで生き抜いてきた人々の知恵や習慣が伝統や食文化となり、気質を育んできたからこそ、今も多くの個性豊かな酒蔵が息づいているのです。

そんな長野県の日本酒に着目し、 “日本酒の伝道師”がフランスから来日しました。パリの中心部にレストランも備えた日本酒ショップ「La Maison du Sake」を構え、同国の日本酒普及を担う第一人者、Ly Youlin氏です。訪ねたのは、長野県の12の酒蔵。「酒造りに欠かせないものは『水・米・人』」と話す同氏が、特に注目したのが長野県の水の清冽さです。
「長野県の水には、森の中でマイナスイオンを浴びるような、体にすっと入ってくる旨みを感じる。きれいな水、丁寧に育てられた米、そして人々が手を取り合い、心を込めて造る日本酒の魅力は、口に含んだ瞬間に伝わる」こう語る彼の酒蔵縦断の旅は4泊5日、実に500km以上に及びました。
長野県の風土や造り手の想いに触れ、それぞれの地域に根ざした日本酒のポテンシャルと蔵元の魅力を発見する旅を2回にわけてご紹介。
Vol.1では豊富な積雪が豊富な北部を訪れた様子を、Vol.2では昼夜の寒暖差が激しい東部と中央部、そして中山道木曽エリアを訪れた様子をお伝えします。

Vol.1 :
長野県北部を訪れたYoulin氏がまず驚いたのが、豊富な積雪量。生まれも育ちもパリで、日本での留学やワーキングホリデー時代も東京や京都で過ごした同氏にとって、雪景色は新鮮で感動的だったそう。一面の銀世界を目の前に、パリに残った家族とビデオ通話で話す様子からも、その興奮が伝わってきました。
この地域で訪ねた酒蔵は3蔵。いずれも豪雪地帯に立地する蔵元です。

北信五岳(※)に囲まれた信濃町の「髙橋助作酒造店」は、扇状地の扇端に位置し、場内の天然の湧を仕込み水とする造り手。この天然水をYoulin氏は「雪を感じさせるピュアでクリアな味わい」と讃えました。
※長野県北部の盆地から望むことができる5つの山の総称
この蔵でもうひとつ注目したのが、2020年に登録された長野県の新品種の酒米・山恵錦。同蔵では2013年より他社に先駆けて試験栽培・醸造し、現在は近隣地区で契約栽培することで、地域の特徴となるテロワールの表現を目指した清酒を製造しています。Youlin氏はこの山恵錦を「長野県の風土に合う米」と表現。「5年前にはなかったローカルな酒米が誕生し、新しい時代の日本酒が生まれることが楽しみ」と、期待の高さが伺えます。

さらに北上し、銘酒「水尾」の蔵元「田中屋酒造店」では、蔵から15kmほど離れた水尾山の天然水を仕込みの全量に使用しています。Youlin氏曰く「少し重さを感じる水の味わい」なのは、どうやら地中を長い時間かけて流動してきた湧水だからだそう。しかし、地層のキメが細かい分、フィルター効果によってミネラル分よりも重みと膨らみを感じる味わいになるのです。

この水に加え、同蔵の酒米にも特徴が。仕込みの多くを占める「金紋錦」は、かつて“幻の酒米”と呼ばれるほど希少品種でしたが、同蔵が苦労の末に地元で復活させたもの。「自分たちなりのやり方で、土地にあるもので勝負をする」。そんな蔵の気概がそこかしこに感じられます。
「日本酒は造り手や風景など、周囲の環境も大切だと感じた。特にこの地域は雪が多く、特有の文化を深く感じる」とYoulin氏。水のきれいさだけではなく、多彩な要素から長野県の日本酒の可能性を強く感じている様子が伝わってきました。

さらに北へ。一層雪深くなると見えてくるのが、県内最北の酒蔵「角口酒造店」です。特に冬は雪に閉ざされる同蔵の清酒「北光正宗」は、かつてこの地域にしか流通しておらず、人々は保存食とともにこの酒を飲んで長い冬を過ごしてきたといいます。だからこそ、派手さはないものの毎日飲めるドライでシャープな味わいが酒造りの根底にあります。その造りを際立たせているのが、丸みのない、輪郭を感じる湧水の味わいです。
杜氏を務めるのは、県内の若手杜氏を牽引する村松裕也氏。蔵人も20〜30代からなる若い集団で、積極的に新たな技術を取り入れた酒造りを進めています。同市内の「田中屋酒造店」と同様に地元産の金紋錦も使っていますが、特有の苦みや渋みを抑えつつ膨らみのある味わいを生み出していることは、たとえ同じ材料を使っても、酒の味が造り手の考えやこだわりを反映することを証明しているようです。

同蔵の日本酒を「技術は高いが繊細で、しっかりと水や酵母の味わいを感じ、やさしい香りとのバランスがよい」と評したYoulin氏。
加えて、3蔵を振り返って「造り手側から水について語ってくれるのがうれしい。どの水も、クリアに体に馴染む中によさがあり、雪質や土壌、地質など風土の複雑さを感じる。景色と日本酒の味わいのつながりを感じて楽しい」と語る言葉からは、改めて長野県の酒蔵に根付く水の文化も実感している様子でした。


Vol.2 :
日本最長の河川「千曲川」の最上流地域にあたる長野県東部の佐久地域の酒蔵を訪れたYoulin氏。この地域では北部の酒蔵と真逆の印象を抱いたそう。すっきり系の北部の酒に対し、この地域では米の味がしっかりとした、ずっしりと甘く旨みが強い味わいを感じたそうです。
というのも、この地域は粘りと甘みが強いご当地米をはじめとする有数の良質な米の名産地。清流と強粘土質の肥沃な土壌、あるいは千曲川由来の砂混じりの独特な土壌と、昼夜の寒暖差の激しい内陸性気候によって個性あふれる米が育まれています。また、冷涼で降水量が少ないため、病害虫の発生が少ないことも米どころたるゆえんです。

そんな地域のなかでも、有機農法でよりよい米づくりに励む農家と地元産酒米を原料とする造り酒屋「土屋酒造店」を中心に、土地の特色を生かした酒造りに20年来、取り組んでいるのが「茜さす会(旧佐久酒の会)」。地元の圃場(テロワール)を尊重し、有機的な酒米の栽培によって良酒を醸し、酒を愛す仲間とともに稲作や酒造りを楽しむことをコンセプトに掲げる団体で、活動を通じた地域貢献と永続的な酒造りを目指しています。
その姿勢が高く評価され、醸された日本酒は2005年には愛知万博の長野パビリオン代表酒に選出されたそう。
「長野県には水の味わいが感じられる日本酒が多い印象だったが、熟成にも適した『米』タイプの酒があるとは思わなかった」とYoulin氏。
実は長野県は酒米生産も盛ん。かつては県外の酒米を頼っていましたが、長野県の冷涼な気候や風土に適した酒米開発などが実を結び、現在の地位まで成長を遂げたのです。
それを象徴するような造り手が、長野県の中心に位置する諏訪湖のほとりにある「豊島屋」。ここでは「金紋錦」「山恵錦」など全7品種の長野県酒造好適米を、商品の特性に合わせて使い分けています。

同じく諏訪湖畔にある「諏訪御湖鶴酒造場」では同一酵母・精米で米違いの日本酒を醸造。Youlin氏も「同じ造り方、酵母で米だけが異なる商品ラインアップはコンセプトがわかりやすく、米の味わいの違いが楽しめて面白い」と語るように、『水がきれいな酒』のイメージは大きく変化したようでした。
「日本酒はもちろん、ランチなどでも、米のおいしさを感じた。それに、長野県酒造好適米の種類がこんなにあるとは思わなかった。他県は2~3種ではないだろうか」
そう話すYoulin氏の佇まいからも、長野県の日本酒に抱く驚きと印象の変化が見て取れました。

また、諏訪湖周辺は、旧中山道と旧甲州街道が走り、古くから旅人が行き交い栄えてきた地。街道沿いには今なお茶屋や史跡が残り、旅人がもちこんだ文化が伝統として息づいています。
こうした街道の影響が見られるのは、この地域に限りません。約9割を森林が占め、耕作地が狭い木曽地域では稲作ができなかったことから、かつては米の代わりに木を年貢として納めてきた歴史があります。また、価値の高い森林資源を流通させることで、多くの米が木曽地域に入ってきたといわれています。
中山道・木曽路の宿場町に蔵を構える「湯川酒造店」では、この米を酒造りに利用することでこの地域の経済を循環させ、発展してきました。そのため、長野県産以外の酒米を使うことも同蔵のアイデンティティとなっているそう。文化の交流もまた、長野県の日本酒の多様性を支えているのです。

「以前から日本酒もワインも、原料や成分だけでなく、人や景色、環境、なぜ酒を造っているかというビジョンの違いなど、さまざまな影響で味わいの印象が決まってくると思っていた。また、どちらの酒も人々が造り手を尊敬しているからこそ、味もおいしくなると感じていた。そうしたなかで、今回訪問した長野県の酒蔵はいずれも日本酒を語るうえで、まず水や地域で育まれた米の話をされていて、テロワールを大切にしている姿勢を感じた。そして驚いたのが、長野県の日本酒の豊かなバリエーションだ。水のよさはもちろん、ナチュール(自然酵母)の日本酒もあるし、米タイプもある。それぞれの造り手の技術も高いし、表情も豊か。ワインよりもバリエーションの広さを感じている。『ローカルの人のために日本酒を造りたい』という造り手の意識も素晴らしかった」
Youlin氏は、濃厚で凝縮した旅をこのように締めくくりました。


日本には「酒屋万流」という言葉があります。酒蔵にはそれぞれに思い入れやこだわりがあり、その結果、多種多様な日本酒の個性が生まれていることを表現していますが、そんな日本酒の根源をまさに体感し、新たな価値観も得た旅となったことでしょう。

酒造りは、各地のランドスケープによって育まれる良質な水と米、そしてその原料を生かす酵母と麹の働きが欠かせません。それらをコントロールするのが、造り手の技術と、歴史や伝統、文化によって育まれた感性。言うなれば、日本酒は広い意味でテロワールそのものを映す鏡のようなもの。集落ごとに存在する酒蔵こそが、長野県の多様性の証明であり象徴なのです。